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[介護退職から訪問ヘルパーへ]母と過ごした日々が私を変えた

介護
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「やっと、少し落ち着いたかもしれない」

訪問介護にも慣れてきて、朝・昼・夜のペースも少しずつ掴めてきた頃でした。

けれどその朝、母が「左腕が動かない」と言ったとき、私は時が止まったような感覚になりました。

救急搬送、そして“脳梗塞”という診断。

それまで要介護2だった母は、一気に要介護5に。
トイレも、食事も、すべてに手がかかるようになりました。

そして私は、仕事と介護の両立が難しくなり、身内と何度も話し合った末に退職を決断しました。

「これでよかったのか」
「私は今、ちゃんと生きているんだろうか」

そんな思いが、夜になると静かに押し寄せてきました。

本記事では、介護の急変、限界の瞬間、そして“働くこと”を手放してまで向き合った日々を、私の言葉で綴ります。

同じように一人で抱え込んでいる方に、少しでも届きますように。

脳梗塞で入院した母は、退院後すぐに「要介護5」と認定されました。

それまでの「要介護2」とは、まるで世界が違いました。

トイレはもちろん、ベッドからの起き上がりも、食事も、すべてにサポートが必要になりました。

朝は、母の着替えと食事介助から始まります。
昼は、再び食事の準備と介助。
夜は、入浴の補助や排泄の世話、その後の就寝準備。

一日が「母のために動くこと」で埋め尽くされる日々に変わっていきました。

最初のうちは、なんとか仕事も続けようと努力していました。
でも、介護と仕事の両立は、想像よりはるかに難しかった。

急な通院や、夜間のトイレ対応で寝不足になり、日中の集中力が保てない。
職場で申し訳なさを感じながらも、母を優先せざるを得ない。

やがて私は、身内と話し合いを重ねた末に、退職を決めました。

「母の介護に専念する」という選択をしたその日、
気持ちはどこかすっきりしていたけれど、
同時に、これから先どうなるのかという不安でいっぱいでした。

介護度が上がるということは、
ただ「お世話が増える」だけじゃない。

自分の時間、キャリア、日常――そのすべてが“母の生活”に吸い込まれていく感覚でした。

介護に専念すると決めたあと、
もちろん「これで母にちゃんと向き合える」と思っていたし、実際そうでした。

けれど、時間が経つにつれて、心のどこかにじわじわと疲労が積もっていきました。

家族の中では「仕事を辞めてくれた人」という立場になり、
手を抜くわけにはいかない、甘えてはいけないと、自分をどんどん追い詰めていきました。

特に、夜がしんどかった。
母が寝静まったあと、洗濯機を回して、片付けをして、ようやく座れた深夜。

ふと、「これがいつまで続くんだろう」と思うと、急に涙が止まらなくなる。

寂しいわけでも、怒ってるわけでもない。
でも、叫びたくなるような孤独が、胸の奥にずっと居座っていたんです。

誰かに「つらい」と言うことが、弱音になる気がして言えませんでした。

介護をしている人の多くが感じていると思います。
「限界」の正体って、たぶん“物理的な大変さ”じゃなくて、
誰にも言えない孤独と、“自分の人生が止まった”という感覚なんじゃないかな、と。

仕事を辞める決断は、本当に苦しいものでした。

何年も続けてきた職場を離れるのは、肩書きや安定だけじゃなく、
「私が私であること」の一部を手放すような感覚でした。

辞めたあとも、しばらくは「私は今、何者なんだろう」と思う日々が続きました。

でもある日、ふと若い頃に母に言った言葉を思い出したんです。

「お母さんは、すぐに死なないでね、私が“もう死んでもいいよ”って思えるまで、ちゃんと生きててね」

たぶん私は、昔から“きちんと見送る準備”をしたかったんだと思います。

思い出した瞬間、涙が止まりませんでした。
でもそれは、悲しみというより、何かが腑に落ちたような涙でした。

「ああ、これがその“時間”なんだ」

母と笑ったり、冗談を言い合ったり、小さな変化に一喜一憂する日々。

たしかに大変です。
でも、「いま私、ちゃんとお母さんと生きてる」って実感する瞬間が増えてきたんです。

不思議と、その頃から介護が“苦痛”ではなく、
少しずつ“やりがい”や“幸せ”のような感覚に変わっていきました。

“介護だけの毎日”から、“未来につながる毎日”へ

介護に専念してからというもの、気づけば毎日が同じ繰り返し。

でも、少し気持ちに余裕が出てきた頃から、
私は「隙間時間にできること」を探すようになりました。

スマホで“介護 疲れた”“介護 楽にする方法”などと検索していくうちに、
いろんなブログや専門サイト、SNSの発信者たちと出会うようになりました。

その中でふと見つけたのが「介護福祉士」という国家資格の情報でした。

最初は他人事のように見ていましたが、
「3年以上介護業務に従事すれば受験資格が得られる」と知って、
どこか心がざわついたんです。

「もしかして、私のこの経験って、ちゃんと“キャリア”になるんじゃないか?」

その思いがきっかけで、私はケアマネさんに相談しました。

「母の介護をしながら、短時間でも働ける場ってありませんか?」

すると驚くほどスムーズに話が進み、
登録ヘルパーとして訪問介護の事業所で、隙間時間に働かせてもらえることになったんです。

勤務時間は週に数回、1~2時間程度。
でも、外とつながっている感覚が嬉しかった。

それに、自分が家でやっている介護と、
他人の家で見る介護との違いも知ることができて、視野が一気に広がりました。

「母の介護のためだけに生きているんじゃなくて、
 介護の中で“自分の道”も探している」

そう思えるようになってから、毎日にほんの少し、光が差し始めました。

ずっと私は、「母のために介護をしている」と思っていました。

母の身体のため、母の安心のため、母の命のため。

けれど、いつからかふと気づいたんです。

介護を通して変わっていたのは、母だけじゃなく、私自身だということに。

母と過ごしたあの日々は、
不安や怒り、涙や孤独、そしてささやかな笑顔で溢れていました。

思い通りにいかない毎日だったけど、
思いがけず得られる「ありがとう」や、母の笑顔に何度も救われました。

母が亡くなった今でも、私は心の中で思っています。

「介護がしたい、看たい」

これは、苦しかった日々を乗り越えたからこそ芽生えた感情です。

もしあのとき、母と向き合う時間を持たずに、仕事だけを選んでいたら、
私はこんな風には思えなかったかもしれません。

介護の日々は、母が私に残してくれた、人生でいちばん大きなプレゼントだった。

そして今、私はそのプレゼントを胸に、
これからも“看ること”を選んで生きていこうと思っています。

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